当たり前の継続が一番難しい 「私の財産告白」
おはようございます、またはこんにちは、もしくはこんばんは。ガッツ(@guts_0773)です。
またも前回の投稿から間が空いてしまいましたが、皆様いかがお過ごしだったでしょうか?
私の方は色々とありまして、4月から新しい環境に行くことになりました。その辺りのことはまた後日お話ししたいと思います。
というわけで、久々の書評ブログです。
日本のバフェットと言われた人物の回顧録
本日ご紹介する書籍は「本多静六・著」「実業之日本社文庫・出版」
『私の財産告白』
です。
価格:523円 |
これは私の愛読漫画「インベスターZ(三田紀房・講談社)」に出てきた書籍で、一介の大学教授ながら巨万の富を気づいた『本多静六氏』が、どのような財産形成をしてきたかを記した書籍になります。
本多静六氏自体は今から100年近く前の時代を生きた人になりますので、過去の時代の内容かと思いきや、現代にも通じる部分が多くあったので今回取り上げることにしました。
平凡なことを当たり前にやっただけ
この本の前半部分、私の財産告白の部分に書かれていることは至って普通である。
インベスターZにも書かれていたが簡単にいうなら氏の財産形成法とは
・貯蓄
・投資
・利益確定からの再投資
の三つである。
(この辺りの部分は世界的な大投資家、ウォーレン・バフェットにも共通している)
正直どれも投資をやっている人間や、投資の勉強をしている人間からすれば、至極当たり前のことしか書かれていない。
しかし、当たり前のことだからこそ、簡単にできそうなことだからこそ、いざやってみようとするとできない。
そのあたりは投資に限らず様々な分野でみなさんも経験や、思い当たることがあるのではないでしょうか?
本多静六氏のスゴい点はこの「当たり前」のことを、「続ける」ことができた点に尽きる。
まさに
『継続は力なり』
を体現した人なのだ。
だからこそ生誕から150年以上が過ぎても評価され続けているのではないだろうかと、私は考える。
現代にも通じる本多式社会学
この本の前半部分の「私の財産告白」については多くの書籍等でも紹介されているのでこれ以上は紹介しない。
むしろ私が今回取り上げたいのは後半部分、
「私の体験社会学」
の部分である。
こちらの後半部は本多氏が生きてきたなかでの失敗や経験談を踏まえて、人生の進め方を述べているパートになる。
これもまた100年前の人間の体験談からくるものだから
「古い考えなのでは」
と思いきや、読んでみると内容はまさに温故知新、現代人が忘れてしまった社会の生き方が書かれている。
人付き合いの仕方から、商売哲学、仕事術まで、効率と成果に縛られた現代社会に刺さるような内容ばかりなのだ。
特に私の心に残ったのが
「代議士を志して」
の項である。
端的に内容を紹介するなら、
地位と名声のために自分の財産を投げ出す覚悟があるなら、代議士を目指しなさい
という内容である。
読んでいて笑ってしまった。
まさに世界一高い供託金を払わなければ議員に立候補すらできず、当選後も議会以外での活動に多額の資金が必要で、まさに「金持ち」と「名声を手に入れたい人間」しか成り手がいない日本の政治をそのままに表している。
しかも70年も前の書籍においてでである。
(もちろん議員の中には高い志を持って、それこそ私財を投げ打つ覚悟で活動してる方がいらっしゃることはお断りしておく)
日本の政治についてここまで的確に正論をぶつけている同著からは学ぶことが本当に多い。
一方で、政治家というものが100年近く前から変わっていないというのもまた問題である。
そんな調子だから国際社会の波から取り残されてしまうのだという声が上がるのも、ある意味納得である。
最後、話が逸れてしまったが、とにかく「温故知新」という言葉がふさわしい書籍が同著なのである。
努力と継続の大切さ
そして印象に残るのが同著の最後の言葉、本多静六氏の人生の結論である。
それは
人生即努力、努力即幸福
という言葉である。
これは
「当たり前のこと」
を
「継続し続け」
て成功を収めた本多静六氏ならではの言葉であろう。
もちろん努力したからといって全員が必ず成功するとは限らない。
だが何もしなければ、何も得られないということでもある。
某ボクシング漫画・はじめの一歩の一節にふさわしい言葉があったので引用させていただきますと
努力した人間が皆成報われるとは限らん。
しかし!成功した人間は皆すべからく努力しておる!!
(はじめの一歩 43巻より)
ということです。
努力と継続が報われにくくなっている現代社会ではありますが、今一度基本の大切さを教えてくれる、そんな書籍であると思います。
気になった方はぜひご自身の手にとってご一読されることをお勧めします。
価格:523円 |
なお貰っていない、本多一族からも、実業之新車文庫からも、一円も・・・・・・・。
「フツウ」という呪縛からの解放 「学校へ行けなかった僕と9人の友だち」
おはようございます、もしくはこんにちは、またはこんばんは、ガッツ(@guts_0773)です。
本日取り上げる本は、先日書店に行ってタイトルが気になって、珍しくジャケ買いした本の紹介になります(基本私は本は店頭である程度中身を見てから買う派)。
で、読んでみて社会問題や現代人の悩みについても考えさせられる内容の本でしたので、今回取り上げることにしました。
それではよろしくお願いします。
「不登校」から考える現代社会
本日取り上げる書籍は、「棚園正一・著」「双葉社・出版」
『学校へ行けなかった僕と9人の友だち』
です。
学校へ行けなかった僕と9人の友だち (アクションコミックス) [ 棚園正一 ] 価格:815円 |
小学校一年生から不登校だった著者が、漫画家として活動する現在に至るまでの実体験をありのままに綴ったコミックエッセイになります。
読んでて気になったある言葉
今回この本について書評しようと思ったのが、作中に繰り返し出てくるある言葉が気になったからでした。
それは
「フツウ」
という言葉です。
不登校児だった著者は作中で事あるごとに
「フツウの子供だったら〜」
「フツウこの位の年齢だったら〜」
と、とにかく世間一般の人の「フツウ」と、「フツウ」ではない自分を比べ、度々落ち込みます。
かく言う私自身も「フツウ」と言う言葉には、随分と悩まされてきた人間の一人です。
私個人の話で恐縮ですが、母親が典型的な昭和思考の型にはめるタイプの教員で、家でも教員のままだったので、常に
「教員の理想とするフツウの子供像」
に無理やり押し込められるように育ったので、この本は読んでいて共感することばかりでした。
ですが後にも書きますが、多様化の進む現代社会において、そういった一昔前の型にはめるような教育・思考や、良いか悪いかの二極論等は最早過去の悪しき慣習でしかありません。
普段からそう言った
「過去の悪しき習慣をなくしたい」
と思っていたからこそ、今回この本を手に取るに至ったとも言えます。
たくさんの出会いと体験から出た答え
著者である棚園氏は基本的には漫画を描きながら、様々な道を経験します。
何度も「フツウ」ではない自分の生き方に悩みます。
そんな著者を救ったのが様々な人との出会いと、そこから生まれる「縁」でした。
そして棚園氏は気付きます。
・「ちゃんとした大人」とか「フツウ」なんて自分で勝手に作ってしまっていただけだ
・周りに合わせようと焦る必要なんて全くない
・どんな道だって未来の自分だけの道へ必ず続いている
(本文より抜粋)
と。
棚園氏は長年自分を苦しめてきた「フツウ」から脱却できたのです。
私はこの「フツウ」からの脱却こそが、日本が新しい時代に移るために必要だと考えています。
当たり前を疑うことがスタート地点
ここでみなさん、一度考えてみてほしい。
普段から私たちが口にしている
「常識」
「普通」
「一般的」
「標準」
と言った言葉について。
普段から口にしているこの言葉って、一体
「いつ」
「誰が」
言い出したことなんでしょう?
誰も答えられないと思います。
私たちはいつ、誰が決めたかもわからないようなことを、さも昔から存在した絶対的基準のように認識し、使っているに過ぎないのです。
今回の本で言えば
「学校には行って当たり前」
と言うのはいつ、誰が決めたのでしょうか?
そして、その「当たり前」はなぜ存在するのでしょうか?
その問いの答えについては話し出すと長くなるので、今回は割愛します。
日本はまだまだ学歴社会ではありますが、それでも不登校から起業して成功した人や、高卒でも活躍している人、挫折から立ち直り再起に成功した人も増えてきています。
そう言った点から考えても一昔前の「当たり前」は、今では「当たり前」では無くなってきているのです。
ここまで見れば
『世の中に溢れる「当たり前」の多くは今では過去のものである』
ことはご承知いただけるかと思います。
多様化という時代の波に乗り遅れないために
近年
「人生の多様化」
が叫ばれていますが、まだまだ日本は実現には程遠いと言えます。
それを阻害しているのは先にも書いた、いつ・誰が作ったかもわからない
「当たり前」
や
「フツウ」
という過去の悪しき習慣が、その要因の一つであることは間違いなく言えると思います。
では、多様化を実現するにはどうすればいいか。
これは私の好きなドラゴン桜2(三田紀房・講談社)の台詞からの引用ですが
常識という物差しをへし折ってゴミ箱に捨てることです!
あとは自分の思うがままに生きることです
(ドラゴン桜2 9巻より)
ということに尽きると思います。
一昔前の「常識」が現代に通用しないのは先に考察した通りです。
そして棚園氏が行き着いた先にあった答えも同様です。
(「たくさんの出会いから出た答え」の項参照)
現代社会に息苦しさを感じている人にこそ読んでほしい本
ここまで長々と書いてきましたが、現代社会に
「生きづらさ」
を抱え込んでいる方には一度は読んでほしい本であるなあと、読み終わった時に思わされる本でした。
「こんなふうにうまくいく人の方が珍しい」
と言われる方もいるかと思いますが、少なくとも現代社会の生きづらさから脱却した一人の人間の例として、今度は自分がどう乗り越えるのかを考える時の一つの指標になるかと思います。
この本が不登校のみならず、生きづらさを感じている一人でも多くの人の手に取られ、一歩を踏み出す
「きっかけ」
や
「心の支え」
になってくれることを願って締めたいと思います。
なお、貰っていない、棚園氏からも、双葉社からも、一円も・・・・・・・。
「フツウ」という呪縛からの解放 「学校へ行けなかった僕と9人の友だち」
おはようございます、もしくはこんにちは、またはこんばんは、ガッツ(@guts_0773)です。
本日取り上げる本は、先日書店に行ってタイトルが気になって、珍しくジャケ買いした本の紹介になります(基本私は本は店頭である程度中身を見てから買う派)。
で、読んでみて社会問題や現代人の悩みについても考えさせられる内容の本でしたので、今回取り上げることにしました。
それではよろしくお願いします。
「不登校」から考える現代社会
本日取り上げる書籍は、「棚園正一・著」「双葉社・出版」
『学校へ行けなかった僕と9人の友だち』
です。
学校へ行けなかった僕と9人の友だち (アクションコミックス) [ 棚園正一 ] 価格:815円 |
小学校一年生から不登校だった著者が、漫画家として活動する現在に至るまでの実体験をありのままに綴ったコミックエッセイになります。
読んでて気になったある言葉
今回この本について書評しようと思ったのが、作中に繰り返し出てくるある言葉が気になったからでした。
それは
「フツウ」
という言葉です。
不登校児だった著者は作中で事あるごとに
「フツウの子供だったら〜」
「フツウこの位の年齢だったら〜」
と、とにかく世間一般の人の「フツウ」と、「フツウ」ではない自分を比べ、度々落ち込みます。
かく言う私自身も「フツウ」と言う言葉には、随分と悩まされてきた人間の一人です。
私個人の話で恐縮ですが、母親が典型的な昭和思考の型にはめるタイプの教員で、家でも教員のままだったので、常に
「教員の理想とするフツウの子供像」
に無理やり押し込められるように育ったので、この本は読んでいて共感することばかりでした。
ですが後にも書きますが、多様化の進む現代社会において、そういった一昔前の型にはめるような教育・思考や、良いか悪いかの二極論等は最早過去の悪しき慣習でしかありません。
普段からそう言った
「過去の悪しき習慣をなくしたい」
と思っていたからこそ、今回この本を手に取るに至ったとも言えます。
たくさんの出会いと体験から出た答え
著者である棚園氏は基本的には漫画を描きながら、様々な道を経験します。
何度も「フツウ」ではない自分の生き方に悩みます。
そんな著者を救ったのが様々な人との出会いと、そこから生まれる「縁」でした。
そして棚園氏は気付きます。
・「ちゃんとした大人」とか「フツウ」なんて自分で勝手に作ってしまっていただけだ
・周りに合わせようと焦る必要なんて全くない
・どんな道だって未来の自分だけの道へ必ず続いている
(本文より抜粋)
と。
棚園氏は長年自分を苦しめてきた「フツウ」から脱却できたのです。
私はこの「フツウ」からの脱却こそが、日本が新しい時代に移るために必要だと考えています。
当たり前を疑うことがスタート地点
ここでみなさん、一度考えてみてほしい。
普段から私たちが口にしている
「常識」
「普通」
「一般的」
「標準」
と言った言葉について。
普段から口にしているこの言葉って、一体
「いつ」
「誰が」
言い出したことなんでしょう?
誰も答えられないと思います。
私たちはいつ、誰が決めたかもわからないようなことを、さも昔から存在した絶対的基準のように認識し、使っているに過ぎないのです。
今回の本で言えば
「学校には行って当たり前」
と言うのはいつ、誰が決めたのでしょうか?
そして、その「当たり前」はなぜ存在するのでしょうか?
その問いの答えについては話し出すと長くなるので、今回は割愛します。
日本はまだまだ学歴社会ではありますが、それでも不登校から起業して成功した人や、高卒でも活躍している人、挫折から立ち直り再起に成功した人も増えてきています。
そう言った点から考えても一昔前の「当たり前」は、今では「当たり前」では無くなってきているのです。
ここまで見れば
『世の中に溢れる「当たり前」の多くは今では過去のものである』
ことはご承知いただけるかと思います。
多様化という時代の波に乗り遅れないために
近年
「人生の多様化」
が叫ばれていますが、まだまだ日本は実現には程遠いと言えます。
それを阻害しているのは先にも書いた、いつ・誰が作ったかもわからない
「当たり前」
や
「フツウ」
という過去の悪しき習慣が、その要因の一つであることは間違いなく言えると思います。
では、多様化を実現するにはどうすればいいか。
これは私の好きなドラゴン桜2(三田紀房・講談社)の台詞からの引用ですが
常識という物差しをへし折ってゴミ箱に捨てることです!
あとは自分の思うがままに生きることです
(ドラゴン桜2 9巻より)
ということに尽きると思います。
一昔前の「常識」が現代に通用しないのは先に考察した通りです。
そして棚園氏が行き着いた先にあった答えも同様です。
(「たくさんの出会いから出た答え」の項参照)
現代社会に息苦しさを感じている人にこそ読んでほしい本
ここまで長々と書いてきましたが、現代社会に
「生きづらさ」
を抱え込んでいる方には一度は読んでほしい本であるなあと、読み終わった時に思わされる本でした。
「こんなふうにうまくいく人の方が珍しい」
と言われる方もいるかと思いますが、少なくとも現代社会の生きづらさから脱却した一人の人間の例として、今度は自分がどう乗り越えるのかを考える時の一つの指標になるかと思います。
この本が不登校のみならず、生きづらさを感じている一人でも多くの人の手に取られ、一歩を踏み出す
「きっかけ」
や
「心の支え」
になってくれることを願って締めたいと思います。
なお、貰っていない、棚園氏からも、双葉社からも、一円も・・・・・・・。
世界レベルの安全保障論入門 「世界標準の戦争と平和 初心者のための国際安全保障入門」
おはようございます、またはこんにちは、もしくはこんばんは、ガッツ(@guts_0773)です。
本日はちょっとタイムリーな話題に関する書籍のご紹介ですが、内容が賛否両論分かれる内容になるかと思います。
書評なので私の主観が入りますので、内容が気に入らないという方も出てくるかと思いますが、覚悟の上で書きたいと思います。
それではよろしくお願いします。
日本ではまず見ない世界レベルの安全保障の入門書
本日ご紹介する本は私が尊敬するジャーナリスト「烏賀陽弘道氏・著」「悠仁書院・発行」の
『増補新版 世界標準の戦争と平和 初心者のための国際安全保障入門』
です。
「尊敬してるジャーナリストだからって贔屓にしすぎじゃないか?」
と思われるかもしれませんが、烏賀陽氏の書籍はきちんと取材をして裏付けのある内容でどこに出しても間違いがないから、私も自信を持って推しているのです。
今回も全部取り上げるととんでもない長文になってしまうので、私が読んでいて気になった部分を取り上げていきます。
日本では語られない国際安全保障論
現在(2022/03/01時点)ロシアのウクライナ侵攻が連日ニュースで報道されており、私が同著を読もうと思ったのもそれがきっかけです。
Twitter等のSNSを見ていても、著名人から一般人まで幅広い方が上記のことに関して発言をされています。
この本でもロシアの海洋進出についての記述があり、同問題についても考察ができる非常に興味深い書籍でした。
で、書評を始める前に断っておきたいのですが、同著ではSNSで盛んに議論されている
「どちらが悪い」
「侵略は問答無用で『悪』である」
といった、善悪論、もっというなら物事を二極化して考えるような考え方は出てきません。
ですのでそういったものを期待している方はここから先を読むことは勧めませんし、同著の購入もやめておいた方がいいと思います。
同著の中にも出てきますが、安全保障を語るときに「善・悪」「左・右」といった二極論は最早時代遅れの考え方であり、安全保障論を語る上では正常な判断を阻害する障害でもあるからです。
では同著はどういった内容の本なのか。
同著は著者の烏賀陽氏がコロンビア大学大学院で学んだ国際安全保障論(軍事学・核戦略)の内容の中で、日本のニュース・マスコミでは語られない
「基本中の基本」
をなるべくわかりやすく解説したものである。
そのため前述したように「どちらが悪い」と言った二極論は出てきません。
公平な報道をするために最低限抑えておかねばならぬ
「必須事項」
が書かれているのが同著なのです。
地政学と安全保障論
同著を読んでいて書きたいことは山ほど出てきましたが、現在問題となってるロシアのウクライナ侵攻につながる問題として注目したいのが見出しに挙げた
「地政学」
という考え方である。
地政学とは
地理的条件の観点から政治や経済、軍事を分析するアプローチのこと
同著70ページより
とされており、国際安全保障を考える上での基本とされている。
そして同著が奇しくも地政学の例として挙げたのが、ロシアの地政学であった。
ロシアが歴史的にどう言った地理的条件を持っており、それによってどういった政策を取らざるを得なかったかが考察されている。
なので同著を読めば今回の
「なぜロシアはウクライナに侵攻したのか」
の一つの答えが出てしまう。
先にも挙げたがそこには
「侵攻をしたロシアが悪い」
という善悪論は出てこない。
地政学と同じく、安全保障において念頭に置かなければいけない
「核」
の問題と絡めて、深い考察がなされている。
そしてこういった観点からの考察、報道は私が知る限り日本では皆無である。
同著を読んだ上でのウクライナ問題の私見
そして、この本を読んだ上での私の私見を言うなら
「今回のロシアのウクライナ侵攻はロシアとウクライナの二国間の問題ではなく、世界中の様々な安全保障政策が重なり合った結果起きたもの」
となる。
同著を読んだ上で、ロシアを一方的に
「悪」
と言うことはできない。
もちろん武力による侵略は許されるものではないし、私も容認するつもりはない。
だが侵攻を仕掛けたロシアが一方的に悪いかというと、そうも言えない。
ロシアが武力侵攻に進んだ原因の一端は、各国の安全保障政策も複雑に絡んでいると思うからだ。
この問題を解決しようと思ったら、ロシアとウクライナの二国間だけでなく、両国を取り巻く安全保障に関わる関係各国の仲介と、協議による妥結が不可欠かと私は考えている。
これからの時代を生きる人はぜひ読んでほしい本
なぜ私が前項の結論に至ったのかは、説明するよりも同著を読んでいただいた方がおそらく早いと思うので、興味が出た方はぜひ手に取って読んでみてほしい。
また、今回はロシアのウクライナ侵攻というニュースがきっかけでしたが、同著の中には尖閣問題をはじめとした中国との領土問題のことや、北方領土問題など、この先の未来に進展があるであろう問題がケーススタディとして挙げられている。
この先の日本を生きる若い方ほど、この国の行く末を決める判断材料の一つとして是非ご一読をお勧めします。
なお以前にも挙げましたが、現時点(2022/03/01)では悠仁書院の書籍は同社のHPからしか購入できないので、ご購入はこちらのリンクからどうぞ↓
また著者の烏賀陽氏が毎週金曜日に行なっているYouTube番組、通称「ウガ金」の2022/02/25の配信にて、同著の内容を元にしたロシアのウクライナ侵攻について解説されてますので、興味のある方はこちらもどうぞ↓
進学にも戦略が大切 「東大なんか入らなきゃよかった」
おはようございます、もしくはこんにちは、またはこんばんは。ガッツ(@guts_0773)です。
前回のブログから1ヶ月ほど開いてしまいましたが、皆様いかがお過ごしだったでしょうか?
私の方は少々転職活動でバタバタしておりまして読書の方もストップしておりましたが、ひと段落したので再開です(結果がどうなったのかはお察しください←)
さて、久々の書評ブログで取り上げるのは「学歴」に関する本です。
進学にも戦略の大切さを思い知らされる一冊
今日取り上げるのは、著・池田渓、出版・飛鳥新社
「東大なんか入らなきゃよかった 誰も教えてくれなかった不都合な話」
です。
価格:1,500円 |
受験シーズン真っ只中でちょっと重いというか、ある意味タイミングの悪い書籍ではあると思いますが、それでも進学する前には一度は読んで欲しいと思ったので今回取り上げることにしました。
結論から言ってしまえば
「東大を出た後のことを考えずに東大にいくと卒業した後が苦しいよ」
と言うことです。
以下で詳しくみていきます。
東大に行っても幸せにはならない?
「東大は人生のプラチナチケットだ」
「バカとブスこそ、東大に行け」
は東大進学漫画で有名な
のドラマ版で出てきた名言(?)ですが、この本はそれを否定してきます。
自身が東大卒の著者も含めて、東大に進学して
「失敗した」
と思っている人たちの声を集めた書籍です。
読んでみると当事者へのインタビューに基づく、生々しい声がいくつも挙げられています。
東大卒というレッテルによるパワハラや官僚という高学歴の王道の落とし穴、東大特有のパーソナリティの問題など
「東大という日本の最高峰の機関だからこその苦悩」
か数多く挙げられています。
もちろん東大を出て成功している人、幸せを掴み取った人もいるでしょうが、逆に苦労をしてしまっている人も一定数いることも同著は我々に示しています。
頭がいいから東大に行くは間違い?
日本は良くも悪くも多少見直されつつはあるとはいえ、まだまだ学歴社会です。
そう言った意味では、東大に行くのは日本においては成功者への第一歩とも言えるでしょう。
だが同著に出てくる人たちは皆、無理して東大に入らなかった方がよかったのでは?と思わされる人ばかりなのだ。
東大を出て親の面倒を見るために地元の役所に就職して地元の大学の派閥にパワハラを受けた人、東大の大学院に行ったが担当教授に冷遇され中退した人、特に目的もなく東大に入って就職活動もせずに気づけば派遣社員だった人などだ。
その人たちはその後医学部へ入り直したり、保持していた教員免許を使って教職の道へと転身しようとしたりと、結局東大に行かなくてもできる道へ進んでいる。
東大=日本を引っ張っていく職に着く人間、最高学府の頭脳で日本を引っ張っていく人間などのイメージを東大に抱く人も多いと思うが(私もその一人である)、同著を読む限り決してそういう人ばかりではない。
確かにそう言った資質を持った天才型や秀才型も東大にはいるが、一方でペーパーテストで点を取ることが得意なだけで東大に行けた人もいると著者は言っている。
またコミュニケーションを取るのが苦手な人間も多く、特定の業務以外は苦手で他人よりも劣ってしまう人も一定数いるという。
そう言った点から考えると、テストの点が良いからと言って東大に行くこと、未来の自分のためと言って何も考えずに東大に行くことは、必ずしも正解とはいえないのではないだろうか。
肝心なのは社会に出た後を見据えること
この人たちに共通して言えるのは何か。
それは始めにも書いた通り
将来社会に出た後のことを見据えて進学先を考える
ということである。
先に出てきた方々で言えば、親の面倒を見るために地元での就職を目指すのなら、転勤の多い大企業等に入りやすい東大よりも、ランクを落としても地元の難関大学や医学部・法学部という選択肢になる。
博士課程をスムーズに卒業し、大学教授の道を目指すというのなら、自分の研究内容により詳しい教授のいる大学や、研究発表支援の厚い教授のいる大学を選ぶなどの選択肢を選ぶ方が良い。
最高学府・東大だから進みさえすれば万事OK、ということではないということが同著から学び取れる。
全てにおいて言えること
同著を読んでの締めの言葉として
東大に入ることを目的としてはいけない
と言うことを最後に記したい。
これは私自身の失敗談も踏まえての上での言葉である。
もちろん私は東大出身ではない。
だが、楽器職人を目指して学校に入ることばかり頭にあって、卒業した後のこと、就職した際の自分の第二次産業での不適合さが見えなかったことから、失敗してしまった教訓を踏まえての言葉である。
進学した後(就職した後)の未来の実現のために東大が必要というのなら、迷うことなく突き進んでほしい。
だが進学した後(就職した後)の未来に東大が必要じゃないというのなら、立ち止まって考えてほしい。
学力があるからといって何も考えずに東大に行くのは、必ずしも幸せな結果が待っているとは限らない。
これから進学をする人(就職する人も)は、どうか進学すること(就職すること)を最終目的にしないでほしい。
大事なのはその後なのだ。
誤解を与えかねない迷著 「私はうつ」と言いたがる人たち
おはようございます、もしくはこんにちは、またはこんばんは。ガッツ(@guts_0773)です。
今日も「うつ病」に関する書籍の書評です。
そしてタイトルからわかるかと思いますが、今回も辛口書評です。
うつ病の否定的な書籍第二弾
『「私はうつ」と言いたがる人たち』
です。
価格:660円 |
以前の村松太郎氏の「『うつ』は病気か甘えか。」以降、うつ病の否定的な書籍も読んでみようと思い、中古書店で見つけて購入したものです。
内容的には当事者の私から見て賛成できる点3割、賛成できない点7割という感じでした。
以下で詳しく見ていきます。
「うつ病です」と言わないでという人たちの存在
同著を読んで感心した・賛同した点が、
病院を受診した人の中に「うつ病」の診断書を出さないでほしい
と希望する人が一定数いるということである。
どういうことか?
うつ病をはじめとする精神疾患の存在や危険度が広く知られるようになって随分経つが、日本の企業の9割以上を占める中小企業においては、まだまだ偏見を持っている企業も多い(私がいた会社もそうだった)。
そう言った会社に勤めている方や非正規雇用の人の中には、「うつ病」という診断が下ることで、不当な扱いを受けたり休業補償が受けられず収入が途絶えてしまうため、休みたくとも休めない人が一定数いるということだ。
断っておくが、病気を理由に不当な扱いをすること(解雇など)は労働基準法に抵触する行為である。
そのような状況に置かれて、病気なのに十分な治療ができずに最悪のケースを迎えてしまう人たちがいるということを提示したことは、うつ病患者にとっては救いの光だろう。
その点については私も賛同する。
うつ病は「普通の病」なのか
しかし一方で最終章で著者はこうも言っている。
うつ病は、ふつうの病気だ。
ふつうにだれもがなるが、多くの場合は、ふつうに治療すれば、ふつうに回復する。まわりの人たちも、基本的にはふつうの病として扱えばよい。
もちろん、「ふつう」というのは「たいしたことがない」という意味ではないし、場合によっては遷延や再発もありうる。しかし基本的には、うつ病は「ふつうの病」であることを、本人にも周囲の人たちにも、そして社会にも、きちんと認識してほしいと願っている。
「私はうつ」と言いたがる人たち 192〜193ページより
前半部分、誰もがなるが適切な治療をすれば回復する病、というところは否定しない。
だが、だからと言って「ふつうの病」なので特別な扱いをするまでではないというのは、どうだろうか?
うつ病は重症度にもよるが、最悪の場合「死にたい」「消えていなくなりたい」と思わせる(死生観)ほど、精神に影響を与える病である。
うつ病と自殺については因果関係を科学的に証明することはできないが(うつ病で亡くなった人がそれが原因で亡くなったかどうかは証明できないため)、少なくとも影響を与えるということまでは通説となりつつある。
下手をすれば命に関わるような病を「ふつうの病です」と言っていいのだろうか?
私はそうは思わない。
早い段階で治療できればよいが、それができない人たちがまだまだいることは著者自身が同著で言っている。
であるならば、初期の軽い状態で治療ができるように世の中に提言していくことこそが、必要なのではないだろうか。
少なくとも「ふつうの病です」と誤解を与えるようなことを軽々しく言うべきではない。
「うつ」を利用しようとする人たちの存在
なぜ著者はうつ病を「ふつうの病」と言うに至ったのか?
それは同著の中に出てくる
「うつ病を利用して自分の要求を通そうとする人たちがいる」
と言う、著者の普段の診療の経験からくる記述にあると思われる。
同著の中には
・「うつ病」を理由にして会社に待遇の改善の要求をする社員
・「うつ病」を理由にして恋人との関係を改善しようとする患者
などなど、うつ病を利用しているのでは?と思わされる人が何人か挙げられている。
著者が
『「私はうつ」と言いたがる人たち』
というタイトルで同著を書いたのはそう言った人たちとの出会いがあったからだと思う。
そしてそう言った人たちのせいで被害を被っている人間がいるから
「うつはふつうの病である。特別視する必要はない」
と言う結論に至ったのでは?と言うのが、同著を読んだ上での私の結論である。
同著の落とし穴
だが、同著を読んでみると、著者の普段の診療の経験上からの記述は多々あれど、他の医師に同様の患者がいないかの聞き取りをしたかどうかなど、第三者からの意見がないことに気づく。
他の医師から同様の意見やケースが報告されているならまだしも、著者の経験のみで語られていると言うことは、著者の主観に基づく一方的な偏見の危険性も否定できない。
一個人の私的な思い・感想として抱いているだけならともかく、「書籍」と言う形で世の中に出すのならば、影響力も考えるとせめて他の医師に同様の
「うつを利用している人たち」
の存在とその割合を聞くべきではなかっただろうか?
でなければ
「うつと言いたくても言えない人たち」
や
「本当にうつ病で治療が必要な人」
を雇用する側の人間が、同著を自分達の都合のいいように解釈し
「それはうつ病を自分の都合の良いように利用しようとしている。うつは普通の病気だ。」
と、かえって治療を必要とする人の要求を拒否する口実になりかねない(私も実際に精神疾患の診断書を会社に突っぱねられたときに、同著から読み取ったと思われる理論を言われた)。
本当に治療が必要な人が適切な対応を受けられなくなるかもしてない、そんなことを著者は望んでいるのだろうか?他ならぬ、医師である著者が。
情報は鵜呑みにしてはいけない
当事者の私からすれば、以上のように賛同できない部分が多い書籍であった。
繰り返しになるが
「うつは普通の病気ではない。場合によっては命に影響を与える可能性のあるのもだ」
と言うことと
「うつを利用する人間がいると言う同著の言葉を鵜呑みにせず、医師の診断に従った初期段階での治療の普及と精神疾患への理解」
を私は声を大にして言いたい。
「情報は疑って見なければならない」
と言うことと
「当事者意識」
の重要性を再認識させられる書籍であった。
書籍内で「名著」と言われた書籍を読んで感じた違和感
おはようございます、またはこんにちは、もしくはこんばんは。ガッツ(@guts_0773)です。
昨日、以前書評した村松太郎氏の「『うつ』は病気か甘えか。」
に「名著」として取り上げられていた「軽症うつ病」について書評をしました。
実際に読んでみると「軽症うつ病」を「伝説の名著」として取り上げていた「『うつ』は病気か甘えか。」に対して、またもツッコミどころが出てきましたので、今日はその点について書いていきたいと思います。
きちんと読んでいない疑い
「軽症うつ病」を読んで思ったのが、「『うつ』は病気か甘えか。」で取り上げられている同著の内容が
都合のいい部分だけを都合のいいように解釈して使っているのではないか
という疑問である。
なぜそう思ったのか。
「『うつ』は病気か甘えか。」の中で「軽症うつ病」について語られている内容の中に次のような記述がある。
この伝説の名著では、ストレスによる落ち込みではなく、理由のない落ち込みこそがうつ病の中心であることが、冒頭から本全体を通じて貫かれている。
「『うつ』は病気か甘えか。」69ページより
確かに「軽症うつ病」の中で語られているものの多くは、内因性(はっきりとした理由がなく突如起こるもの)のうつ病に関するものであり、そこは間違ってはいない。
しかし、第五章のうつ病の治療についての記述に以下のような記述がある。
精神科の診察室というと、何か摩訶不思議なことが行われていると誤解される方もおられるかもしれないので、〜中略〜、内因性うつ病を「素質」プラス「性格」と環境からの「引き金」の合作による心理的疲労現象とみた上での治療です。
「軽症うつ病」148ページより
この記述を見る限り、内因性うつ病は本人の素質と性格に加えて、何らかの環境による引き金が原因となって起こるものと読み取れる。ストレスとは明記されていないが、少なくとも何らかのきっかけがあると記述されている。
また、終わりの方にこういった記述もある。
治療の要否を判断するために、何か簡単で有効的な診断図式がないか。〜中略〜そのためには内因性の軽症うつ病を中心において整理するのが一番よいというのが本書を貫く私の主張でした。それも、メランコリー親和型というかなり特定可能な性格型の持ち主が比較的特徴的なストレスをきっかけとして心理的疲労ににおちいる、という型のうつ病です。
「軽症うつ病」241ページより
軽症うつ病の著者、笠原氏ははっきりと書いているではないか。
「治療の要否を決めるためには内因性の軽症うつ病、それも特定可能な性格型の持ち主が比較的特徴的なストレスをきっかけに心理的疲労におちいるという型のうつ病を中心に整理するのが一番いい」と。
内因性の軽症うつ病=比較的特徴的なストレスをきっかけとしておちいるもの、と書いているではないか。
この時点で冒頭の村松氏の主張には矛盾が発生する。故に都合のいい部分だけを都合よく使っているだけなのでは?という疑問が生まれてきた。
まえがきから既に読めていない
そして最大のツッコミどころは「まえがき」にある。
「軽症うつ病」のまえがきの中で笠原氏は
医療の対象になってしかるべき「ゆううつ」の範囲は意外に広い、というのが私たちの今日の率直な印象です。ここで話題にする軽症うつ病も、一見したところありふれた心の悩みか、ときには人間の成長に役立つ大切な苦悩にさえみえるのですが、その実、確実にまずは医療の対象なのです。
「軽症うつ病」4ページより
と綴っている。
どこかで見た覚えのある記述である。
そう、まさに「『うつ』は病気か甘えか。」で提示された、厚生労働省の「メンタルヘルス不調」の定義とほぼ一緒なのである。
皮肉なことに「うつは病気か甘えか」の問題定義を根本から崩した基準が「うつ病の伝説の名著」と自らが評価した書籍のまえがきに既に書かれていたのである。
もし村松氏が「軽症うつ病」をきちんと読めていたのならば、「『うつ』は病気か甘えか。」はそもそも生まれなかっただろう。
何がいけなかったのか
結局村松氏の何がこのような結果を招いてしまったのか。
私はうつ病を
うつ病かそうでないものかの二極化で区分しようとしたこと
が原因としてあると思う。
というのも、「軽症うつ病」の中で笠原氏は当時の学会の診断基準から
『軽症うつ病を精神病ではなく気分障害の中の一つとして捉える』
と綴っている。うつ病を中心にうつ病かそうでないかで見るのではなく、医療の対象となる気分障害の中の一つとしてうつ病を見ると提言している。
うつ病を中心にしてうつ病かそうでないかの二極論で考えればグレーゾーンが生まれ、村松氏のいうように「『うつ』は病気か甘えか。」という問題定義も出てくる。
だが「気分障害の一つとしてのうつ病」として、大きな視点からうつ病をみれば、そのような視点は生まれてこないのではないか。
うつ病でなければ気分障害の中の別の病気、別の障害ではないかを疑えばいいのだから。
物事の全てには答えがあり、YESかNOの二択しかないという所謂「エリート思考」に陥ったことが、村松氏の失敗であったのではないかと私は考える。