ガッツの徒然日記

不定期で日々思ったことを徒然と書き綴ってます

読書感想文も変わっていくべき

皆様こんにちは。ガッツ(@guts_0773)です。

今朝新聞を見ていたら朝の情報番組の見出しに

ちはやふる作者の発言で話題。読書感想文の悩み」とあって、学生時代に苦労したのと

『なんでこんなもんやらなあかんのだ?』

という当時の疑問も思い出したので、今日は読書感想文の意義と今後についてです。

そもそもなぜ宿題というものが存在するのか

子供の頃こんな疑問を持ったことはありませんか?

学校で十分に勉強したというのに、なぜ家に帰ってまで勉強しないといけないのか?

しかもやらないと先生から叱られる、ある意味罰則付きの勉強。いや最早義務化された自主勉強と言っても過言じゃないでしょう。

ちょっと前に新聞に各界の著名人の「宿題に対する考え」という記事がありましたが、将棋の藤井聡太七段など若い方は

『学校で十分に勉強しているのだから宿題は要らないのでは?」

と宿題は必要なのか疑問視する傾向がありました。

一方で野球のイチロー氏は

『宿題ってのは嫌なことに立ち向かい乗り越えるための試練の様なもの。』

とおっしゃっていました。

私の推測ですが宿題というものができたのは後者、イチロー氏の考えから来るものなのではないかと思います。

前回の記事で

『学校は人間を社畜に仕立て上げる様な軍隊式の教育を今だに行っている』

と批判しましたが、その視点から考えればこのイチロー氏の考えは納得がいきます。

「上に言われたことは絶対に聞かなければならない。」

「嫌なことから逃げてはいけないという根性論の押し付け。」

と言った様な、

『上からの命令に逆らわない人間にするための土台づくり』

と考えれば合点がいくのではないでしょうか?

読書感想文はなぜ宿題として取り入れられているのか

青少年読書感想文全国コンクールのHPにあるQ&Aの中に

「読書感想文は何のために書くの?」

というものがありました。その答えが

書くことによって考えを深められるからです。読書感想文を書くことを通して思考の世界に導かれ、筆者が言いたかったことに思いをめぐらせたり、わからなかった事を解決したりできるのです。ですから読書感想文は「考える読書」ともいわれます。また、どんなに強く心を動かされても、時がたてばその記憶は薄れてしまいます。読書感想文は自分自身の記録です。読み返すことによって、いつでも「感動した自分」に出会うことができるものです。 

(読書感想文全国コンクール公式サイトより)

 です。

要は

『読書を通じて考える力を身につける。』

『感動した記憶を文章化する訓練。』

という2つが目的と言えるでしょう。

では、果たしてこれは役目を果たしているのでしょうか?

一つずつ見ていきましょう。

普段の読書で考える力は身につくのか?

皆さんは普段本を読むときに上記にある様に

「作者はこの本を通じて何が言いたいのか?」

という事を考えて読んでますか?

ほとんどの方は返答に困るんじゃないでしょうか?

例えば学術書であったり実用書なんかでは

「要点はどこだろうか?」

「この段落の中でポイントとなるところはどこだろう?」

と考えながら読むと思います。

ですが読書感想文でよく読まれる小説や文学書を読むときなんかはどうでしょうか?

大体の方は

『作者が何を言いたいか?』

よりも

『作品の世界観に引き込まれ、登場人物の視点で読んで楽しみたい。』

と思う方の方が多いのではないでしょうか?

かく言う私も最近でこそ少しはそう言ったことも考える様にはなりましたが、特に学生時代なんてそんなんことは二の次で

『この本読んでて面白い。主人公の気持ちになって読むとワクワクする。』

と気持ちだけで本を読んでました。

そこから出てくる感想なんて

『面白かった』

とか

『読んでてワクワクした』

ぐらいしか出てこないと思います。

(もっともそこから『なぜ面白いと思ったのか?』と言うところから掘り下げていけば良いんですが、当時はそこまで頭が廻りませんでした。しかもそれだと読書感想文というより『書評』に近いですし。)

結局は

『読書を通じて考える力を身につける。』

のならば初めからそのつもりで読まないと身につかないと思います。

「考える力を」というのなら・・・

本を読むことよりもむしろ世の中にある色んなことに常に疑問を持つこと、そしてそれを自分の力で答えを出すことの方が重要だと思います。

「作者は何が言いたかったのか?」という事を考えようと思ったら、先ずは文章を読む中で

『作者はなぜこんな表現をしたのか?』

『作者はなぜこの本を書こうと思ったのか?』

など疑問を持つことが必要となってきます。

それには冒頭に書いた様に常に

『何でだろう?』

と考えるクセをつけることが必要だと思います。

そしてそれがどれだけ都合の悪いことでも教育者や親は逃げてはいけません。

少し前にTwitterのTLに流れてきた話ですが

「何でもいいので身の回りで疑問に思ったことについて調べて発表しよう」

という学校の課題みたいなものが出されたときに

「じゃあ僕は宿題をなぜやらないといけないかということについて調べてきます」

と言った子が先生に速攻で

「あ、それはダメ。」

と断られたそうです。

『「何でも良い」ってあんた言ったやん』

とソッコーで突っ込んだのはもちろんですが

『自由に考えさせず制限を設けることは考える力を育てるのには邪魔だ。』

とも思いました。

疑問に思ったのなら止めないで考えさせて、その上でクラスみんなでそれについて話し合うなり、先生が宿題についてやらないといけないという理由を説明し納得させれば良いだけの話です。

疑問に思ったのならとことん考えさせれば良いと思います。

「記憶を文章化する訓練」というならまず先にやるべきこと

「記憶を文章化」と言いますが、そもそも綺麗な文章というのは何なのか。

よく言われるのは

「起・承・転・結」

とか

「序論・本文・結論」

と言ったことでしょうか?

でもこのあたりの事って理屈は小学校でも習いますが、それを意識して文章を作る訓練って確か中学になってからやった気がします。

で、問題の読書感想文は小学校の4年生くらいから始まります。

文章の書き方も知らないまま記憶を文章化しろって、元々読書好きでたくさんの文章に触れてきた様な子ならともかく、ほとんどの子にはかなり無理があると思うんですが。

おそらくただ感想を羅列しただけとか、あらすじ書いただけとか、そんな感じになってしまいやすいんじゃないかと思います。

(余談ですが私は母親が教員で長期休みの宿題は必ず学校に出す前にチェックされてましたが、読書感想文は大体『こんなもんあらすじ書いただけだ。やり直し。』って言われてOK出るまで書き直しさせられてました。)

まずは最低限の文章の書き方を教えよう

一番最初に書いた朝の情報番組では

「特にどの様に書いたら良いかがわからない。」

という声が多く、文章の書き方を教えていたみたいです。

リアルタイムでは見逃してしまいましたがネットで調べた情報だと

400字詰めの原稿用紙一枚の場合、読む前自分の体験や考えを3行、どうしてこの本を選んだのかを2行、あらすじを5行、一番良いと思ったところを3行、どうして思ったかを2行、これからどうしたいかを2行。

(jcc.jpより) 

 とめちゃくちゃ具体的に解説してました。

(今年の全国の学生の読書感想文が全部この型で提出されたら笑えますねwww)

さっきのうちの母親の件もですが

「正しい書き方も知らないのに書けと言われ、しかも間違ってても正しい書き方を教えようとせずただやり直しさせるだけでは、綺麗な文章なんてかける訳が無い。」

という話です。

結局これも時代遅れな役人仕事のせいじゃないのか?

先ほど出した青少年読書感想文全国コンクールのHPを見る限り、このコンクールを主催している団体は文部科学省天下り団体の匂いがしますし、後援に内閣府文部科学省の名前もあります。

同コンクールは今年で66回目とありますから逆算すると始まったのは1954年。

もしその頃から理念や手法が変わってないとしたらこれは大きな問題ではないでしょうか?

始まった当初は情報の入手方法や娯楽も限られてましたから、文章や本を読む機会も多かったと思われますから自然と

・本を読む習慣

・読書を通じて考える習慣

・多くの文章に触れて綺麗な形の文章を覚える事

が身に付いたのではないでしょうか?

ですが現代では情報の入手方法も多様化しました。物を調べるのも本からインターネットでの検索が主流になりましたし、ネットは本に比べれば一回の文章は非常に量が少ないです。

どうしても長い文章に触れると言ったことは減ってきますし、自分で考えるということも減ってきています。

そんな時代にあっても開始当初と同じ手法を貫いているとしたら、そりゃあみんな苦労しますし、嫌いにもなります。だってそういう習慣はないし能力も十分で無いのにやりなさいって強制させられるんですから。

無くすか、残すならもう少し工夫しよう

正直な話、本に触れることも考えることも減った現代において読書感想文はあっても仕方ないとも思えます。いっそのこと無くしても良いのではないでしょうか?

とは言ったものの、人間が考える事をやめたら動物園の猿と変わらないですし、ネットの情報もWikipediaをはじめとして信憑性に欠けるものが多いので、情報を自分の頭で判断し考えることをやめる訳にはいきません。

ではどうするか?

一つは途中にも書きましたが学校教育を見直すことです。

本を読む以前に世の中のいろんなことに対して疑問を持ち、自分の頭で考えることを教えるべきですし、学校の教育も一方的に教えるだけや答えの決まっているものを解かせる従来の形式ではなく、決まった答えのないことに対して生徒が個人で考える様なスタイルを取り入れるべきです。

また文章の書き方も早くから教えるべきです。先ほど引用した朝の情報番組でやった様に、具体的に何をどの順番で書いていくかということは最低限教えても良いかと思います。その様な事を教えると例題として読むなど、自然に良質な文章に触れる機会も増えるのではないでしょうか?良質な文章に触れる機会が増えれば自然に綺麗な文章も身につくのではないでしょうか?

もう一つは文章を書くのを読書の感想に限定しない事です。

読書に限定するから本を読まなきゃいけないし、感想が生まれる様に読まなきゃいけない。だからみんな書きたくない、書けないということにつながると思います。

だったら読書縛りをやめて、個人の自由に好きな事や疑問に思った事をテーマにして小論文を書くということでも良いのではないでしょうか?

こう言ってしまうと

「自由研究とやってることが被ってる」

と言われそうですが、読書感想文だって自分が選んだ本についてあれこれ考察して感想を書く訳ですから本質的には変わらないと思います。

途中で出てきましたが

「読書を通じて考える習慣を身につける」

「自分の考えを文章化する」

というのが読書感想文をやる趣旨なんですから

『考える』

『文章化する』

という趣旨からはみ出してなければ問題ないと思います。

むしろ固っ苦しく本を読んでごちゃごちゃ感想書くよりは、例えば現代だったら

「私が考える、鬼滅の刃のヒットの理由」

とか

「なぜお菓子の梱包はわざわざ個別包装がなされているのか?」

と言った身近なテーマについて自分なりの考察をして文章化した方が子供も面白がってやると思うんですが?

もっともこうするとずる賢いやつはそう言った評論本とか考察本を丸パクリしますが、そこはあとがき丸写ししたり誰かに代行してもらってる現状のある読書感想文も変わりません。

むしろ読書感想文に比べて親がああ書けこう書け言うんじゃなく

『何でそう思ったの?』

『何でそうなったと思う?』

と投げかけていって、出てきた言葉をまとめれば良いだけですから親の負担も減りますし、子供も読書感想文やるよりは少しは考えると思います。

もちろん読書好きな人は従来通り読書感想文書けば良いですし。

大切なことは本質から外れる事なく如何にして時代に合わせていくか、ということではないでしょうか?

 

長文にお付き合いいただきありがとうございました。