島根の高校のクラスター発生から考える「学校の時代錯誤さ」
皆様こんにちは。ガッツ(@guts_0773)です。
Twitterを見ていましたら昨日発生した島根県の高校のクラスターについて、学校側のとんでもない対応が学校のブログに掲載されていたことがTLに流れてきました。
当該ブログの中身を見ることができましたが
「この状況でこんな事やったらそらクラスター出るわ」
って状況で驚きを隠せませんでした。
これに学校行事(?)学校命令(?)だからって参加した学生も学生ですが、それ以上にどう言う理由か知らんけどもこの状況下でこんなクラスターをわざわざ発生させるようなことを強行した学校側に強い疑問を抱きました。
私は時代遅れのブラック企業が大嫌いですが、同じくらい旧態然とした昭和時代で時が止まった、型にはめるしかできない学校も同じくらい大嫌いなので、今日はその辺りのことについて書きたいと思います。
こんな事やってりゃそりゃクラスター発生するわ
クラスター発生の原因となっと思われる当日の状況の画像がまだネット上にありましたのでまずはご覧ください⬇️
いかがでしょうか?
屋外なので密閉ではありませんが、密集・密接状態な上にマスクを誰もしてません。
おまけに野球部員と至近距離で握手と抱擁って・・・。
危機管理がなさすぎる。
これ、参加した生徒は
「これ、このコロナ感染拡大中の中でやって大丈夫?」
とか
「これヤバイんじゃないの?」
って思った子は居なかったんでしょうか。
こんだけの人数が居たら一人や二人居たっておかしくないと思うんですが・・・。
私の勝手な想像ですが考えられることとしては
「そんなことよりもこの感動を分かち合いたい。」
って言うスポーツバカの能天気なのが多いか
「学校がやるって言うから、みんながやるから仕方がない。」
って言う、学校によくある『みんなに合わせなければいけない』と言う同調圧力から来るものではないかと思います。
みんなに合わせることは最早時代遅れ
今だに日本は学校はおろか国(政府)までもが
『周りの人間に合わせましょう』
『一人だけ違うことをしてはいけません』
『集団に迷惑をかける事をしてはいけません』
と徹底的に集団主義・全体主義を教えていますがこれは既に時代遅れも甚だしいことです。
なぜならばこの方針は戦前・富国強兵時代に制定された教育方針から全く変わってないからです。
また、世界的に見ても日本の会社に尽くす(いわゆる社畜)ということは馬鹿馬鹿しいことだと言われています。会社のために働きすぎて死ぬ『過労死』なんてその最たるものです。
外国では組織に属していても、最も尊重されているのは個人だそうです。休みが取れないのは管理ができてない上司や会社の責任だそうですし、一部の国では休みが取れなかったり残業したら翌週その分休めたり早く帰れたりするそうです。
ではなぜ日本はそう言った文化がないのか。
戦前や高度経済成長期はとにかく均一な一定レベルの労働力・戦力が必要不可欠でした。そのため社会の前段階である学校に求められることは
「集団で同じことをやる時に足並みを揃え、組織のために尽くせる人間を作ること。」
でした。
つまり国の成長のために企業がありその為に社員が居るという考えかたです。
ですが既に高度経済成長なんて遥か昔の話。消費増税・新型コロナによって組織なんてバタバタ倒れている時代です。しかも組織を守る為に個人が平気で切り捨てられる状況です。
そんな時代に組織のいう事を忠実に守り尽くすことが果たして正しいと言えるのでしょうか?
今はむしろ個人のアイデアや多様な視点から物事を見て生まれるアイデアが社会を変えて支えている時代です。
『一人の人間が起こした小さな波が大きなうねりとなり時代を変えていく。』
そんな時代です。
その際たるものがスティーブ・ジョブズが作った『Iphone(スマートフォン)』です。
スマートフォンが世の中に出回ったことで掌の上で常時インターネットによって世界と繋がることができるようになり、今までの常識が時代遅れとなり、新たな価値観が創造され、それに合わせて新しいビジネスが生まれるまでになりました。
おかしなことには「おかしい」と言える世の中に
もちろん集団に属している限りは最低限のルールを守る必要は出てきます。
ですが、明らかにおかしいことや時代遅れなことを指摘した人間が
『集団の方向に合ってないことを言うな。組織に文句を言うな。』
と言われて突っぱねられるのは、最早時代遅れを通り越して時代に逆行する行為です。
そんなことでは日々進化していく世界の情勢からは生き残れません。
その為にはどうすればいいか?
『国や企業が全体主義を捨て個人を尊重する多様な生き方を認め、それに適応した社会・組織へと変革する』と言うことが必要になりますが、その為にも教育も変わっていく必要があります。
具体的なこととして
『みんな違ってみんな良いこと(多様性の享受)を教える』
『答えがひとつでは無いこと、否定することが間違いでないことを教える』
『知識を教えることは勿論大事だが、常に世の中の色んなことに疑問を持つこと(考える力・習慣)を与える場を作る』
要は今だに行われている
『生徒を厳しく躾け、絶対的な一つの価値観を植え付け、組織の為に尽くす人間にまるで型にはめるかのように仕立て上げる』
言わば、人間を社畜に仕立て上げるような軍隊式の教育を辞めることです。
昔の日本の軍隊は上意下達、上の命令には絶対に従い逆らわないと言うものでした。ですがその結果どうなったか。戦争に負けたばかりか不必要な戦いをし多くの犠牲者を出しました。日本の教育現場はこの頃と全く変わってません。
それは冒頭にあげた島根の高校の件を見ていただければお分かりいただけると思います。
私の推測にはなりますがおそらく教師の誰かが言い出したか、生徒会等のごく少人数が言い出した事を誰も反論する事なく(思ってても口に出さず)、組織の赴くままに行った結果があれです。
確かに頑張った野球部を祝福しようという気持ちは分からなくもありません。ですが時と場合と言うものがあります。
これだってみんなが自分の頭で考えて
『このコロナ下でこんな事やったらヤバイ』
と答えを出し
『野球部を讃えたい気持ちはわかりますが集団感染危険があるからやめましょう』
と声を上げる人間が出て、同じ答えを持つ人間が賛同したり、考えを変え賛同する人間が大勢集まってたら防げたのでは無いでしょうか?
教育現場は昭和から令和の時代にあった変遷を
もう一つ、令和という時代に必要な教育として上げたいのが
『独りで生きていく技術』
を教えるべき、という事です。
と言うのも既に書きましたが今や組織(もっと言えば一部上層部)が生き残る為に社員が平気で切り捨てられる時代です。また正規雇用もこの増税とコロナ不況で減少しています。正規雇用という点で言えば派遣法改正によって今や正社員になることもなかなか厳しい時代です。
そんな時代を変えていくのも必要ですが、一方で組織に頼らず独りで生きていく技術と知識もこれからの時代必要なことだと思います。
具体的には『起業の仕方』です。
聞いた話では商業高校や工業高校などでは既に起業の仕方も普段の授業と並行して教えているそうですが、世の中が個人を平気で切っていく状況な以上、全ての学校で起業について教える必要がある時代だと思います。
そう言った時代情勢を踏まえず、『ただ組織に従順なだけの人間を作るだけ』を今だに量産するだけの組織である学校はもうこの辺りで終わりにして欲しいものです。
教育改革が言われて久しいですが、どうか官僚が自分達だけの狭い知識だけで作った旧体然としたものを引き継いだものでなく、時代に合ったこれからを生きていく多くの一般人にとって有益な学校となる事を切に願います。
長文にお付き合いいただきましてありがとうございました。